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月詠み
2nd Story
「それを僕らは神さまと呼ぶ」
オフィシャルインタビュー

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2nd Story

Interview

ユリイ・カノンが語る『それを僕らは神様と呼ぶ』で描きたかったもの

月詠みの2ndStory『それを僕らは神様と呼ぶ』の全貌が明らかになった。ユリイ・カノン執筆の小説をもとに、ひとつひとつの楽曲が物語を織りなす本作。「人が死ぬところ」の予知夢を見てしまう阿形千春、 そんな千春に学校の屋上から飛び降りようとするところを阻止され出会った宇栄原照那という二人の少女を主人公に、死というもの、そして生きるということを深く問いかけるような作品だ。どんな構想から本作が生まれたのか。『それを僕らは神様と呼ぶ』の「それ」とは。ユリイ・カノンにインタビューを行った。

インタビュー : 柴 那典

人が死ぬということを知った時に自分は何ができるだろうか

『それを僕らは神様と呼ぶ』の構想はどういうところからスタートしたんでしょうか?

昔から「自分はいつ死ぬんだろうか」ということをいつも思っていました。希死念慮みたいなものがずっとあったんです。ただ、もし本当に明日死ぬということになったら、実際は死にたくなくなるんだろうということも思っていて。そんな中で、以前、ずっと連絡をとっていなかった昔の知人が亡くなったことがあったんです。その近い日に、普段は別に思い出すこともなかったのに、その知人が夢に出てきたことがあって。虫の知らせというか、そういうこともあるのかなと思ったんです。そういうところから、人が死ぬということを知った時に自分は何ができるだろうかということを考えて。改めて死と向き合うものを書きたいと思ったことがありました。

今「改めて」と仰いましたが、これまでも、ユリイ・カノンさんの作品は死というもの、そして生きるということに向き合い続けてきたと思うんです。これは変な質問ですけど、そういうことはもうやりきった、という感じにはならなかったということなんですね。

そうですね。どんなに生きる理由を見つけたり、希望を見つけたとしても、どうしてもその先には死がつきまとう。それを絶望と捉えるのか、終着点と捉えるのか、それまでの過程に何を見出していくのか。そういうことについて、結局ずっと考えているところがあって。やっぱり、どこか現実と向き合いたくないというか、ずっと逃避し続けてる人間なので。自分が描く物語には、それを擬似的に叶えたいというようなものが反映されているんだと思います。

1st Story『だれかの心臓になれたなら』と今回の作品の方向性として、どこか共通しているようなものになったという感覚はありましたか。

『だれかの心臓になれたなら』はユリイ・カノンとしてボーカロイド楽曲を投稿し始めた頃から構想があったもので、それを改めて形にしたのが月詠みの1st Storyでした。そこで描いたものが1st Storyの全てではあるんですけど、ただ、書きながら思っていた別の生き方だったり、もっと違う向き合い方だったり、そういうものもあって。前作は「ユマ」と「リノ」という2人の少女が主人公で、今作は「宇栄原照那」「阿形千春」という2人の少女が主人公で、そういうところも共通しています。もちろん別の人間だし、物語は別の形ではあるんですけれど、結局は、その頃に描ききったつもりでいたものにまだとらわれているということなのかもしれないと思います。

現実は非情で、生きることは難しい、でもだからこそ

『それを僕らは神様と呼ぶ』のティザームービーは2024年2月に公開されています。全ての結末を知ったうえで改めて見ると非常に示唆的な内容になっていますが、この時点では完成像のイメージはどれくらいあったんでしょうか?

物語の結末は最初に考えていました。最初と最後だけは自分の中にあって、そこに至るまでを、点をつなげていくような感じで物語を考えていったので。もちろん書いているうちに変化したものもあるんですけど、ティザーを公開した時点ではあらかた出来上がっていました。結末では、一人が相手を救うためにとった行動が、それを奪ってしまう。その無情さを描きたかったというのはありました。

『それを僕らは神様と呼ぶ』のストーリーは自殺をしようとしていた照那という少女が千春という少女に救われるシーンから始まります。その冒頭と、そことは対極的な最後のシーンが最初に思い浮かんでいたイメージだった。

そうですね。予知夢というもの、夢の予知で死を見るということを考えた時点で、それは絶対に変えられないものとして考えていました。自分がこれを書く上で見せたかったのは、現実は非情で、生きることは難しい、でもだからこそ、死を思うことで生きていることの価値を見出すというか。そこの過程を描きたかったんですよね。主人公の照那は、最初に千春に出会った時点では死ぬ予定ではなかった。救われたように見えて、結局それは最後に見た夢だった。最後に訪れる死を見ていただけで、結局は最初から最後まで見ていたものは現実でしかなくて。ただ、一度死と向き合ったからこそ、照那に生きたいという気持ちが改めて芽生えたと思うんです。

照那と千春のキャラクター像はどういうところからイメージしましたか?

自分の中にある感性や、自分の中にある矛盾した考え方を二人に分けたというのはありました。生きたいという気持ちだったり、死んでしまいたいという気持ちだったり、自分が他人の死と直面した時に思うことだったり、そういうものを二人に振り分けるような形で生まれた。だから二人の会話は、自分にとって自分自身との対話に近いのかなと思います。自分の中に矛盾した考え方が二つあって、どっちが正しいわけではなく、答えを出せない。生きていることを喜んでいる時もあれば、そうじゃない時もある。それと改めて向き合うように二人に託したというか。描いているうちに自分ではない二人になっていくんですけど、最初は自分自身の矛盾から生まれた二人ですね。

『それを僕らは神様と呼ぶ』は小説と楽曲がかなり密接に結びつき合っている作品ですが、どういう順番、どういう風に相互のクリエイティブが進んでいったんでしょうか。

まず物語からでした。Chapter:001の楽曲は「死よりうるわし」なんですけど、最終局面から考えたというのもあって、この曲は最初と最後がつながるような楽曲で。最初に死と遭遇するところから始まり、二人が思い合うようになることも入っていて、始まりであり、終わりともリンクしている楽曲です。

最初に発表された楽曲がChapter:003「導火」、次に発表されたのがChapter:001「死よりうるわし」でした。ストーリー通りの順番で世に出たわけではないですが、このあたりはどういうことを考えていましたか?

さっき言ったように、点を配置してそれをつなげていくように考えていったということではありました。その中で掘り下げたい部分だったり、ここで大きく変わったというところをピックアップしていて。あと、より希望的な部分を最初に見せたかったというのはあります。二人が出会って一度生きることへの希望を見出していく。それを描いているのが「導火」です。順番としてはいきなりChapter:003からになるんですけれど、その後にChapter:001の「死よりうるわし」が出てくる。順番をバラバラにした理由としては、これは自分のひねくれた考え方なんですけど、簡単に理解されたくなかったというのがありました。後からピースがはまっていくようなものにしたかった。「これは何の話なんだろう?」っていうところから始めて、「実はこういう話だったんだ」というのがだんだんと分かってくる。「だからこの二人はこの時、お互いをこう思っていたんだ」とか、そういうものが徐々に見えてくるように書きたかったというのがあります。

「ナラティブ」はアニメ『Duel Masters LOST ~追憶の水晶~ / 〜月下の死神〜』、「導火」は「デュエル・マスターズ Special Movie」の主題歌でもあります。この2曲は『それを僕らは神様と呼ぶ』のストーリーの曲でもあるし、タイアップ曲としても機能するという、重なり合う役割を持っていると思うんですが、これはどういう風に考えていったんでしょうか。

まずはタイアップのお話をいただいて、書き下ろす作品の物語を読みました。それと共通するテーマだったり、見えてくるもののつながりを見つけていきました。二つの物語のための曲であり、かつ、ただ表面をなぞったようなものにはしたくなくて。どちらから見てもそのための曲になるように共通点を見つけていって、そこを結んだような楽曲になりました。逆にこちらが影響を受けた部分もあって、それが物語に少し反映されていたりもします。終着点は決まっていたんですけれど、その過程が少し変わったというか。なので、デュエル・マスターズの作品に出会ってなければ、またちょっと違ったストーリーになっていたかもしれないです。

「秋うらら」は主人公の二人が登場しないという、ストーリーの中では特殊な立ち位置の曲になっていると思いますが、これはどういう位置づけなんでしょうか?

「秋うらら」の小説はネットにだけ公開されているんですけど、これはひとつ独立したものになっています。もともと自分が短編で描いていたものがあって、それをこの物語に組み込ませたというか。二人がいろんな「死」を見ていくというものがこの物語の一つのテーマでもあって。最初は二人が誰かの死に出会った物語をオムニバス的に描くような予定もありました。実際に曲になっていないだけで、「こういうのを書こう」と考えてた話もいくつかあって、機会があれば出したいとは思っているんですけど。そうやって、いろんな死を見ていったことがわかるようにその中の一つをピックアップしたというか。実際はもっといろんな人に出会って、でもそれは二人には結局は変えられないもので。照那が知らない中で、千春はずっと死を回避する方法を探していて。でもどうやっても変えられない。最終的に自分の死を受け入れるようになっていく。そういう過程も想像できるようになっているという。そのうちの中で特に書きたかったのが「秋うらら」のもので。楽曲としても美しいものになったと思います。

「夜明けのラズリ」はどんな情景を描いた曲でしょうか。

Chapter:001で照那が触れていた、自分がそもそも死のうと思ったきっかけとして、友人の瑠璃の死があって。その心情を描いた楽曲です。

この曲の曲調には疾走感あるエネルギッシュなイメージもありますね。

瑠璃と照那が元気に生きていたとき、その二人が過ごした時の美しさや輝きというか。青春の日々と、そこに影を落とした追想と後悔を歌詞と音にしました。

「心燃ゆ」はどうでしょうか。

これは千春を主人公として描いた曲です。予知夢を見て、様々な死に触れていって、だんだんとそれが当たり前になっていく。そのことで壊れていくようなところもあって。死は待ち受けていて、けれど誰かの死を通じて、もしかしたら何か変えられるかもしれないっていう希望を見出しながらも、結局また夢を見てしまうことで絶望に落ちていく。その乱高下する感情というか。最初に照那が出会った時の千春の態度も若干そんな感じで、「もうどうせ死ぬんだろう」みたいに、ちょっと適当に生きてるような、そうすることで自分の心を守ろうとしていたところがあって。ある種、逃げるため、自分の心を守るために自分の感情をなくそうとしているような感じというか。歌詞の中では「もういいの じゃあね」って諦めてるようなところはあるんですけど、そうやって未練はないと言いながらも、実際はどこかでそうじゃないと思っている。照那と出会う直前の千春の話を描いた曲です。

曲調にはリズミカルで明るい感じのイメージもありますが、そのあたりは?

自暴自棄というか、どうにでもなれみたいな気持ちというか。絶望を超えた先のイメージがありました。

「ハクメイ」についてはどうでしょうか。これはアルバムの中でもクライマックスのイメージがありますが。

これは後半に出てくる石上のことを入れつつも、二人の結末が両方合わさったような楽曲で。最後の結末に向かって。ここまでの二人が感じてきたものだったり、そこから一つ答えを見つけたところだったり、そういうものを描いた楽曲になっています。

曲名にはダブルミーニングを感じました。

そうですね。「薄明」と「薄命」の二つの意味があります。二人の死がもう近いということを感じながらも、これまで出会ったものを振り返ったり、雪の中でそのことが起きるというのを二人が知っている。そういう情景と心情を描いている曲です。

「薄明」は日の出と日の入りの両方の情景を意味する言葉でもありますが、どちらのイメージがありましたか?

沈んでいくようなものでもあり、逆に見出すように訪れる光を見ているものでもある。どちらでもあるものですね。

全編そうではありますが、この曲では特にツインボーカルであることが効果的になっていると思います。ボーカリストについてはどういうことを考えて起用を考えましたか。

どう聴いても聴き分けられるような声質をまず選びました。自分が想像していた照那と千春の人格に合う声を直感で選んで。対照的で、かつ混ざった時にまた別のものが生まれるような声質のボーカルが今回の2人だったと思います。

「それを僕らは神様と呼ぶ」の「それ」というのは、答えとしてはない「それ」

ラストは「それを僕らは神様と呼ぶ」です。このタイトルも最初から決まっていたものでしたか。

そうですね。ただその神様が何なのかは、物語では全く描いていなくて。「死神」というワードは出てくるんですけど、それが何なのかというのは、もしかしたら変えようのない筋書きや運命的な何かを作ったものなのかもしれないし、死を見ている千春なのかもしれないし。曲の中でもいろんなものを神様と呼ぶと言っていて。それは人間の手の届かないものというか、崇めるようなものでもある。主人公の二人にとっては、命を救ってくれた神様でもあるし、希望を与えてくれた神様でもある。「それを僕らは神様と呼ぶ」の「それ」というのは、答えとしてはない「それ」なんですよね。

物語を受け取った人にとっての問いかけにもなっている。

そうですね。その人が最初に感じた「これだろうな」というものが、おそらく「それ」だと思います。僕にとっては作品だったり、音楽だったりが神様であるけれど、人間が崇めているものはそれぞれ違うものなので。ここは委ねたものです。

この曲はストーリーの情景や場面を描いているというよりは、主人公たちの運命やその価値観を俯瞰で見ているような印象がありました。

物語としてのエンディングは「ハクメイ」であって。「それを僕らは神様と呼ぶ」は主題歌というか。全体像を改めて一つとして捉えたもの。このシーンを切り取ったものとして描いたというよりは、作品そのものの楽曲という感じです。

お話を聞いてわかったことでもあるんですが、小説家としてのユリイ・カノンと、コンポーザーとしてのユリイ・カノンがいる。小説家の自分がコンポーザーの自分に発注している。そういうイメージで今回のプロジェクトを作ってきたという感じでしょうか。

そうですね。先に物語があるので。もともと自分はどちらも好きなんです。小説や映画のような物語も、その物語についてくる音楽もすごく好きで。それによってより世界が広がる。そういうところが好きですね。

改めての質問になるんですけど、物語と音楽が両方好きで、それが結びついているものを作るようになった、その原体験としてはどういうものが大きいんでしょうか。

自分にとって創作の始まりは小説でした。その後に音楽を始めて、楽曲を作るようになって。曲を作り始めたときは、毎日曲を作ってたんで、勝手に何かを題材に曲を書いてみたりもしていたんです。ある種、練習のように、自分の好きな作品から言葉を借りたり、自分にはない考え方を言葉にしてみたりとかもしました。そういうものがルーツになっていて。だから今も歌詞を書くときは、自分の言葉というよりは、その歌詞の主人公になりきって、その主人公が考えているものを言葉を選んで書いていくという作り方で書いています。

これも改めてのルーツ的な質問ですが、小説家としてのユリイ・カノンの原点はどういうところにありますか。

これは恥ずかしい話なんですけど、中学生の時に「本を読んでる奴は格好いい」と思い込んでいて。純文学とか読んでたら高尚な人間に見えるだろうなみたいなところから始まっているんです。その時に学校の図書室で出会ったのが太宰治の『人間失格』だった。最初はそういう不純な始まり方ではあったんですけど、読んでみたら「こういう考え方を持つ人間が自分以外にもいたんだ」みたいに思ったんです。少し醜い人間のあり方というか、そういうものに触れて、初めて自分を理解されたような気持ちになった。そこから小説が好きになって、そこから名作と呼ばれているものを一通り読んでいって。そこから自分でも書いてみたいという気持ちになっていったという感じです。

日本の近代文学にもいろんな系譜がありますが、ユリイ・カノンとしての作風はやはり太宰治や芥川竜之介の系譜にあると思います。小説との出会いが、死生観に深く踏み込んで心の内側をえぐるもの、さらけ出すものとして出会っているので。そうなるのは必然だったというか。

それは間違いないです。もしその時読んだものがハッピーな話だったら、もしかしたら違ったかもしれないです。

最後に聞かせてください。この『僕らはそれを神様と呼ぶ』という作品はいろんな楽しみ方ができる作品ではあると思うんですけど、どんなふうに楽しんでもらいたいと思っていますか。

描いているものは人間の心情には違いないので、まずは楽曲を自分のものとして聴いてもらえればと思います。そこから楽曲を通して見えてくる、楽曲の中にいる人間に興味を持っていただいて、そこから物語に入っていただいて。小説を読んでまた改めて曲を聴けば全く違う捉え方にもなるし、楽曲同士の繋がりも見えてくると思うので。そうやって何度も楽しんでもらいたいと思います。