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月詠み
2nd Story
「それを僕らは神さまと呼ぶ」
Chapter:001 死よりうるわし

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2nd Story

Chapter:001死よりうるわし

この世界では三十秒に一人が死ぬ。それは病死だったり、事故死だったり。

たった今、この瞬間も、どこかで誰かが死んでいる。死んだ人の家族や友人にとっては大きな損失かもしれないが、この地球上においてはほんの些細なこと。取るに足らない自然の流れであり、ごく当たり前のこと。

そして、四十秒に一人が自らの意思で命を絶つ。これもありふれたこと。他愛もないこと。

──私が今からすることは、取り立てて騒ぐこともないごく普通のこと。いわば自然の事象の一つ。

放課後の校舎。閑静な屋上。ありきたりなシチュエーション。

これから私は、ここを飛び降りる。

遺書は書いた。中学の頃から綴った日記は燃やした。携帯電話は初期化した。ハードディスクの中身は削除した。あとはこの身が終わるだけ。

後悔はない。もはや清々しい気分だった。

上着の右ポケットから遺書入りの封筒を取り出す。風に飛ばされないよう、靴を脱いでそれを重しにした。

投身の前に靴を脱ぐという行為は、小説などの創作物においては数百年以上前から見られる描写で、現実で実際にそうする人が大昔からいたかは不明。そうやって描かれてきたものが一種の作法や習慣として伝わり、現代においても映画やドラマなんかで観て植え付けられている。こうして実際に自分でやってみると、なんともおかしな行為だなと感じた。

フェンスをよじ登り、フェンスの向こう側のパラペットの上にゆっくりと降りて立つ。そこから見下ろす地面は遠く、その景色はなんだか作り物のように思えた。それほど高いわけではないが、頭から落ちれば即死だろう。ぞくりとした感覚が全身を駆け巡る。

いつの間にか乱れていた呼吸を整えようと、深呼吸をする。心臓が早鐘を打つ。目を閉じる。
「ねえ、まだ?」

突然聞こえた声。女性の柔らかな声。これは私を迎えにきた死神だろうか。いや、そんな非現実なことがあるのか。しかし死は現実であって、現実ではない。死は生きながらに体験できないのだから。死の後に残るのは無。生きるものにとって、これ程に非現実なことはないのかもしれない。私はその非現実に片足を踏み込んでいるのだ。よく聞く三途の川なんてのも、もしかしたらあるのかも。死神の声が聞こえてもなんら不思議なことではない。
「飛び降りるなら早くしてよ。ここ寒いし」
「え?」

違う。それは明らかに背後から聴こえた人間の声。振り返ると、そこには人間の女がいた。フェンス越しに、女が私の顔を覗き込むようにこちらを見ていた。
「飛ばないの?」

なんなんだこの人は。誰の目にも明らかに、飛び降り自殺しようとしている人間がここにいるというのに。普通は止めようとするとか、誰かを呼んでくるとか、そういう対応をするものじゃないのか。この状況がさも日常茶飯事で、飛び降りないでいる私がおかしいと言いたげな、得心のいかないような表情でハテナを浮かべている。
「なんですか……あなたは」
「今から死ぬのに、知ってどうすんの?」
「…………」

そう言われて、私は思わず目を逸らしてしまう。この人の言う通り、死んだあとのことなんてどうでもいいはずなんだ。それに、別に死ぬことは特別なことじゃないと、さっきまで考えていたじゃないか。
「い、今飛ぶから」

私は再び視線を足元にやる。気か付けば脚が少し震えていた。フェンスを掴む手が冷えて感覚が鈍くなっている。

私は緊張をほぐすように大きく息を吸って吐く。
「あ……ちなみにさ」

遮るように女が声を掛けてくる。
「な、なに」
「どうして飛び降り自殺を選んだの?」
「え……、ど、どうしてって」
「なかなかこんな機会ないしさ。これから死ぬ人にインタビューしておきたいなって思って」
「………………」

私は口を噤む。様々な言葉の断片が頭の中を回る。言いたくないというのが本音だった。
「大した理由じゃない」
「ふーん」

 女は納得のいかないような生返事をする。まるで私が誤魔化したのをわかっているかのようで、それがなんだか少し不愉快だった。
「これは私個人の想像なんだけど、特に楽な自殺の方法は飛び降りだと思うの。首吊りとか、入水とか、苦しそうじゃない?」
「………………」

何も応えない私を気にすることなく、女は話を続ける。
「でも飛び降り自殺って迷惑だよね。あ、これは私が君を否定してるわけじゃないの。一般的な観点での話ね。……飛び降りた人の死体って、血とか脳漿とかぶちまけちゃって、片付けも大変だし、発見した人にトラウマを植え付けちゃったりするかも。まあ、なんというか美しくないの。『立つ鳥跡を濁さず』って言うじゃない?」
「……何が言いたいの」

明らかに苛立ちを孕んだ声色で私は問う。しかし、女は調子を変えることなく話す。
「突発的なものならともかく、君みたいに丁寧に遺書まで用意してるってことはさ、死に方を考えるくらいの時間はあると思うの。こんな公共の場でなくとも……例えば自宅で首を吊るとか」

女はゆっくりと歩き回りながら話を続ける。
「飛び降りるのに適した場所だって、もっと高い建物の方が確実に死ねそうじゃん。わざわざ学校を舞台に選んだのは、例えば学校に対して何かしらの感情を抱いていたり?」

つらつらと述べる女に対して、私は何か言い返してやりたかったけど、それを堪えた。
「誰かに、自分が死んだことを知らしめたい……いや見せつけたい。こんな風に自分を追い込んだのはお前らなんだ──という感じかな」
「…………そうかもね」

まるで心を見透かされているかのようだった。気味が悪かった。しかし、同時に妙な安堵感を覚えた。
「君は……道を歩いている時、人が落ちてくるのを見たことある?」
「ないけど」
「普通はないよね。だから私がここで君の死に立ち会うのって本当に貴重なの」
「……?」

女は私の真後ろで立ち止まる。そしてフェンスに手を掛けながら言った。
「私は、人が死ぬところを見たいの」
「…………は?」

その言葉がさっぱり理解できず、頭の中で何度も繰り返す。なんなんだこいつは。何を言っているんだ。
「うーん。自分でもおかしいと思うんだけど、好奇心というか…………」

そこまで言って、女は言葉を止める。
「ま、大した理由はないかな」

堂々とした態度でそう言った。それは先程の私の言葉を意図的に使ったのだというのがすぐにわかった。つまり、〝追求するな〟という意味が込められたものだ。
「だから、早く見せてよ」

顔は見えなかった。しかし不敵な笑みを浮かべているのを容易に想像させるような声色だった。

そうだった。邪魔が入ったが、私はこれから死ぬんだ。

気が付けばここに来た時よりも随分と陽が沈んでいて、茜に染まっていた空に、深い瑠璃色が混じり始めていた。

これが私の目に映る最後の景色か。

そう思うと、この光景がやけに美しいものに感じた。

私は口を閉ざしたまま、しばらく呆然と立ち尽くしていた。呼吸を忘れていることに気付き、苦しくなって再び深呼吸をする。喉と肺に冷たい空気が流れ込んでいくのを感じた。

様々な思考が混ざり合い、溶けていき、自己の意識が遠のく気がした。時間の感覚が乱れていく。この時間はまるで永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた。

『なんだか、世界が終わるみたいじゃない?』

ふと〝彼女〟の声が聴こえた。そんなはずはない。これは過去の残滓が思い起こされただけ。

強く焼き付けられた記憶のフィルムが突如として再生される。まるで今、あの瞬間に時間が巻き戻ったかのように鮮明に。私はあの日のあの場所に立っている。

当時の、十六歳の頃の私たちがいた。晩夏の夕暮れ。市街の展望所。目前に広がるパノラマ。私の数歩先、防護柵の前で彼女が振り向いて微笑んでいた。夕陽に照らされた彼女の長髪が、茜色を帯びて煌めいていた。その出来過ぎた美しさに、まるで絵画みたいだと思った。

冷たい風を肌に感じ、現実へと引き戻された。夢を見ていたような感覚が残っていた。

私はまだ、その一歩を踏み出せずにいる。

『幸せになりなよ』

また頭に浮かぶ彼女の言葉。それが最期になるなんて思いもしなかった。彼女を失ってから一年間、私は生きた心地がしなかった。

ああ、それでも──。

もうすぐ、また彼女に会える。
「違う」

無意識だった。思考より先に口が動いた。その言葉に込められたものは、私の感情と矛盾している。
「やめる?」
「……やめ、ない」

恐怖を押し殺すように、ぎこちない声で女に返事をする。

胸の内がぐちゃぐちゃになる。絶望。悲愴。戸惑い。苛立ち。怒り。うねるような感情の波。フラッシュバックする過去の出来事。

──あいつがやったんでしょ。

──よく生きてられるよね。

──人殺し。
「死んでやる。未練なんて一つもない。私が死んで、あいつらに罪の意識と苛責の念で苦しませてやる。それが、あいつらへの罰なんだ」

絞り出すように声を震わせて、味わされた苦痛を思い出して胸が締め付けられる。
「……そう。優しいんだ、君って」
「…………優しい……?」

私はゆっくりと女の方へと振り向く。女は先程のような好奇の目ではなく、冷たい表情をしていた。
「君の言う〝あいつら〟がなんなのかは知らないけれど、君をここまで追い込むようなヤなやつらなんだろうね。いい? そんなやつらは、君が思ってるような罪悪感は持ち合わせていないの」
「………………」

私は何も言えなかった。行き場のない虚しさや悔しさのような感情が込み上げてきて、視界が滲んだ。
「誰かが自分のせいで死んだら苦しいはずだって、そう思えるのは、君が優しいからなの」

私の目に浮かんだ涙はやがて溢れ、頬を伝っていた。

フェンスの内側へと戻った私は、まともに立っていられない程に全身の力が抜けてしまい膝から崩れる。みっともなく四つん這いになりながら肩で息をしていた。
「お疲れさま」

女は私の前にしゃがんで、私の顔を覗き込む。
「やっぱり怖かった?」
「……うるさい」

そう返事をしながら顔を上げた。

女の顔を見た瞬間、目を見張った。先程まではっきりと顔を見ていなかったし、この女のことを考える余裕もなかった。だから今、初めて目の前にいる女が何者であるかを認識した。

阿形千春(アガタチハル)。いわゆる学校の有名人。詳しくは知らないが、ファッションモデルやらシンガーやら、芸能活動的なことをやっているらしい。校内でも何度か見かけたことがある。一際目立つ長身、艶のある黒の長髪、人を蠱惑するような切れ長の瞳。〝魔性の女〟という表現がよく似合う。誰もが羨み、憧れる、そんな彼女を私はなんとなく疎ましいと思っていた。たぶん、妬みのようなもの。
「大丈夫? 立てる?」

彼女は手を差し伸べてくる。しかし私はそれを無視して自力で立ち上がった。
「そもそも……あんたがこんなところに一人でいるの」
「うーん、言っても信じないと思う」
「……そう」

いちいち鼻につく物言いをする女だ。

私が見てきた阿形千春は、彼女を中心に取り巻きみたいな女友達が常にいて、ヒエラルキーの上位を気取るグループの女という印象だった。だから、こんな場所に一人でいて、こんなことをしているのが不思議だった。
「一つだけ、」

女は後ろ手を組み、フェンスを背にする。そして微笑を浮かべながら言った。
「君がここに来るのを、私は知っていた」
「知っていた……ってなに」
「言葉通りの意味かな」

それがさも当たり前のことかのように、阿形は言い放った。

私が今日ここで死のうとしていたことを誰かに話したりはしていない。例えばSNSなんかで仄めかすようなこともしていない。
「知ってるわけないでしょ……つまらない冗談はやめて」
「冗談じゃないよ?」

間違えてますよとでも言いたげな、嘲るような表情。

でも、確かにその目は嘘をついている風には見えなかった。
「じゃあなに、『私は預言者』だとでも言うつもり?」
「んー、そんな大それたものじゃないけど、当たらずと雖も遠からず……ってとこかな」
「ふぅん……」

阿形がここまでおかしなやつだとは思わなかった。そもそも、目の前で飛び降りようとする人間がいて、あんな風に接してくる時点でどうかしているのだけれど。
「さっき私言ったよね、ここに何をしにきたかって……」
「ああ……『人が死ぬところを見たい』ってやつ?」
「死ぬところを見たいって……つまりはね、確認したいってことなの」
「確認?」

阿形は目を瞑りながら、ゆっくりとうなずく。
「君がここから飛び降りるのを、夢で見たの」

『……の国道●●号を走行中、信号機の柱に衝突。運転をしていた××さんは病院に搬送されましたが、およそ1時間半後に死亡が確認されました。警察が事故の詳しい原因を──』

テレビから流れる、誰かの死亡のニュース。リビングで一人夕食を食べながら、それをぼんやりと眺めていた。

『誰かが死ぬ夢を見ると、それが現実で起こるの』

あの日阿形が言った言葉が、脳内でこだまする。

今テレビで報道された死亡事故も、あいつは知っていたとでも言うのか。

私が飛び降りるのを夢で見た──と言ったときの、あの女の表情や声色は確かに真剣で、冗談でそれを口にしているのではないようにも思えてしまった。

しかし、そんな非科学的な話を信じるわけがない。

あの日たまたま屋上に来た阿形が、飛び降り自殺しようとする私と遭遇した。それだけのこと。

実際、私はこうして生きているのだ。阿形の予知夢は外れた。いや、予知夢なんて最初から存在しない。あの女の虚言だ。

そうだ。阿形は私をからかっただけだ。あの女も、あいつらと同じだ。

『ありがとう。君のおかげで、私は少し救われた』

私があの場を去ろうとした際に、阿形はそう告げた。その言葉を私はどう受け止めればいいのかわからなかった。

あの日から、私は阿形千春のことばかり考えている。

あんな形とはいえ、私は阿形に命を救われたことには違いない。いや、引き留めようともしなかったし、むしろ飛び降りるのを期待しているような異常な奴なわけだけれど。それでも、あの女が現れなければ私は予定通り死んでいたような気がする。

予知夢だかなんだか知らないが、阿形が現れて私の運命が変わったとでも言うのか。

〝運命〟なんていうポエティックな小恥ずかしい言葉が浮かんだことに、我ながらどうかしていると思った。

私は宇栄原照那(ウエバルテルナ)。高校三年生。

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