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月詠み
2nd Story
「それを僕らは神さまと呼ぶ」
Chapter:002.307 秋うらら

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2nd Story

Chapter:002.307秋うらら

病室の壁に美しい絵画が飾られている。

目を覚まして、久しぶりにカーテンが開かれた窓を見た時、川田優菜はそんな風に思った。

窓の向こう、すぐ目の前には少し背の高い樹が立っている。その落葉樹の葉が紅色を帯びて照り輝いていた。

入院と退院を繰り返して、その度に入院期間が長くなる。季節の移ろいを感じるごとに、同じ病気で入院している患者が退院していくごとに、優菜は自分がもう長くは生きられないことを考えた。

小学校高学年の頃から体調を崩して、そのまま中学生になった。ある頃から退院しても学校には行かなかった。友人が見舞いに来ることもなくなった。

だんだんと弱っていく優菜にとって、この白い壁と天井に囲まれた部屋だけが世界の全てに変わっていった。

一日に二回、食後にカプセルと錠剤を飲み込む。こんな小さなものに、何かを変える力があるのだろうか。いや、ただほんの僅かに命を長らえさせているだけか。希望だとか期待だとか、そんなものはすっかりと薄れてしまっていた。

入院しているからと言っても、学生であることは変わらず、オンラインによる家庭教師の授業を受けている。しかしほとんどの時間は空白となる。ノートパソコンを触る毎日。インターネットは観るが、SNSを観るのはやめた。自分だけが一人取り残されていることを思い知るから。

たまに本を読んだ。いわゆる電子書籍。気晴らしにはなるけれど、どこか退屈さを拭えない。あまり字を読むのが向いてなかったのだろう。それから映画を何本も観た。普通の人が観れば暗い気持ちになるような話が好きだった。自分と同じような、自分よりももっと凄惨な人生を送る人の話。そこに救いがあってもなくても。

悲劇を覆すような奇跡。そんなものがあるのは物語の中だけ。自分の人生が至るのは、何の捻りもないくだらないバッドエンド。劇的な展開など何もない、ただ死を待つだけの道筋。優菜はそれを受け入れるしかなかった。

窓から見える紅葉を間近で見ようと窓ガラスに顔を近づける。その紅葉の樹にはまだ緑色の葉を僅かに残している。これくらいの状態を薄紅葉とか言うんだっけ。

中庭の方を見やると、女子高校生らしき二人組が病棟を見渡しているのを見つけた。腰ほどまで長く伸びた髪の人と、対照的に短めの髪の二人。その様子をなんとなく眺めていると、一人と目が合って思わず優菜は身を隠す。

数秒経って、ゆっくりと再び窓の外を覗いてみる。すると今度は二人がこちらを見て、髪の長い方の女性が手を振っている。もう一人が小さく会釈をする。一瞬勘違いかと思ったが、それは明らかに優菜の方に向けられていた。迷いながらも、無視するのもどうかと思いおずおずと手を振り返す。久々に外の世界と自分が繋がったような気がした。嬉しさと、妙な気恥ずかしさで優菜の表情が緩む。

やがて二人はそのまま出口の方へと向かっていく。優菜はそれを見送るように眺め続けていた。そして同時に、今は疎遠になった友人のことを思い出していた。

見舞いに来てくれたその友人に酷く子供じみた態度を取り、挙げ句の果てには『もう来ないで』とまで言い放った。そんな理不尽な自分に謝りながら去っていった彼女の哀しげな顔が脳裏に焼き付いて離れない。

学校の制服に身を包んだ彼女を見る度、羨ましさと妬ましさが込み上げる。スクールバッグにつけたチャームやキーホルダーが増える度に、自分が知らない楽しい生活を想像してしまう。

学校に通い、退屈な授業を受け、休み時間には友達と他愛もない話に花を咲かせる。そんなごくごく普通のありふれた生活を送る彼女の人生が、もはや別世界のことのように優菜は思えた。

このまま狭い病院に閉じ込められたまま、自分の一生が終わってしまうのかと思うと居ても立っても居られなくなる。

優菜は窓を開ける。秋らしい涼やかな心地良い風が部屋の中へ入り込む。

時折、病院からこっそり抜け出してしまおうかと考える。どこか遠くに行ってしまいたい。しかしその為のお金も、行く宛もない。病院から逃げ出したところで病気からは逃れられない。

──どうして私だけが。

自分の手のひらをそっと見つめる。血色の良い、ほんのり桜色をした健康的な手。病に侵されているようには到底思えない。それでも、いくら薬で進行を遅らせようともこの身体を着実に病が蝕んでいる。

美しい夕焼け。穏やかな風の音。自動車の走行音。鳥の鳴き声。子供達が遊ぶ声。なんの変哲もない、ありふれた日常の一瞬。自分一人が欠けたところでこの世界は何も変わりはしないことを悟った、十五歳の秋。

翌る日の夕方。久しぶりに散歩したい気分になって、意味もなく病院内を歩き回った。

以前はこんな風に毎日部屋から出ていた。その頃は他の長期入院している患者の何人かと顔見知りになった。

そして気付けばほとんどの人が、様々な形でこの病院を去っていった。

優菜がこの病院に入院し始めた頃、中学生の男の子がいた。彼は優菜よりも数ヶ月ほど早くから入院している患者で、晴れた日はたまに中庭のベンチで絵を描いていた。物静かでいつも物思いに耽っているようだった。まだ小学生だった当時の優菜からすれば、彼がとても大人びて見えた。

一度目の入院時は一度もその少年に声を掛けることはなかった。

また体調が悪化し数か月振りに再度入院した時、優菜は中学生になっていた。

そんなある日の昼下がり、病室の窓から中庭を覗くと例の少年がいた。まだ退院できていないことを気の毒に思うと同時に、自分と同じような境遇にいる仲間がいることに安心してしまう。

彼は以前と変わらず絵を描いていた。変わったことと言えば、前に見かけた時は色鉛筆で絵を描いていたが、それが水彩絵具になっていたこと。

優菜はそれとなく少年が座るベンチの隣に腰掛けて、こっそりとイーゼルに掛けられた画用紙を見てみる。そこに描かれているものを見て、優菜を目を見張った。

彼は確かに前方にある少し背の高い樹を写生していた。中庭の中央部に聳え立つその樹は青々と茂っている。そして今は昼過ぎ。

彼が描いていたのは満開の夜桜だった。

優菜はその疑問を投げかけずにはいられなかった。
「あの……すみません」
「なんだい?」

おどおどとした態度で声を掛ける優菜に、彼は優しく返事をしながら顔を向ける。
「どうして、その……桜なんですか?」
「ああ、これのことか」

彼は涼やかな顔で言う。
「それが嘘でも、美しければいいかなって」

至って単純な答えだった。彼にとってはごく普通の考えだったのかもしれない。しかし彼のその言葉を聞いたとき、優菜は胸の奥から何かが込み上げるような感覚がした。

少年の名は福永竜一。

中庭で声を掛けてから、優菜と竜一は少しずつ会話をするようになった。病院の食事が美味しくないとか。オンラインの授業が面倒だとか。どの看護師さんが優しいだとか。そんな取り留めのない話。それから、本や映画の話。そこから得た知識や雑学。勧め合った作品の感想。好きな音楽の話。

病気のことはお互いに訊かなかったし話さなかった。そんなルールを取り決めたわけでもなく、ただなんとなくそうしていた。

今からしてみれば、あの頃の二人がそんな風に多くを語り合ったのは、どこかお互いに別れや喪失を恐れていたからなのかもしれないと優菜は思う。

竜一はいつも口数は少なく、声を上げて笑うような人ではなかった。けれど優菜がくだらない冗談なんかを言うと嫣然と微笑む。優菜は竜一のそんな反応が見たくて彼の前ではいっそう明るくふざけるようになった。

そうして竜一と共に過ごすようになり一年近くが経過し、桜が咲き始めた頃。

その日はとても心地の良い晴れ模様で、彼はまた中庭で絵を描いていた。
「ねえ、私のことも描いてよ」

それはふと思いついたことで、特に深い理由があるわけではなかった。
「俺は風景しか描かない」

竜一がそう応えることを優菜はなんとなく想像できていた。これまで幾度も竜一の絵を見てきたが、彼が人物を描いていたことは一度もなかった。
「どうして人は描きたくないの?」
「人が好きじゃないから」

いつものように淡々とした調子で応えながら筆を動かし続ける。
「私のことも嫌い?」

優菜は竜一の顔を覗き込んで言う。少し意地悪な質問だったかもしれない。珍しく竜一の手が止まる。
「嫌いじゃない」

そう言って、何事もなかったかのように再び筆を走らせる。照れ隠しに絵を進めているのが簡単にわかった。そんな竜一がなんだかとても可愛らしく思えて、優菜は自然と口端を持ち上げる。
「じゃあ描いてよ」
「それとこれとは別」

竜一はきっぱりと言い切る。それは冷たい言い方ではなく、無邪気にからかってくる歳下の相手を優しくあしらう感じで、嫌な気は全くしない。

彼の横顔は穏やかに微笑んでいた。

桜の樹を眺めながら、今この時がとても幸せなものだと感じた。いつか大人になって、歳老いて、どんなことを経験したとしても、今日が特別な瞬間であり続けるような気がしてならなかった。

いつか二人の病気が治って、そしたらこれまでやりたくてもできなかったことを全部やる。奪われた時間を取り戻しにいく。心の中で静かにそう誓った。

それからすぐに優菜の退院が決まった。

退院の日。

優菜が患者服以外の服を着たのは久しぶりで、この格好で竜一と対面するのがなぜか少し照れくさかった。
「またね」
「もう戻って来るなよ」

しんみりとした別れになるのは嫌だったから、寂しさを堪えながらいつもの空気感を保ちながら別れの挨拶をした。竜一も同じような考えだったのか、普段と同じような調子で優菜を見送る。
「お見舞い来てもいい?」

優菜がそう訊くと、竜一は少しの間俯いた。彼の背後の病棟屋上に干された洗濯物が風吹かれてはためいている。竜一は顔を上げ、優菜と目線を合わせないようにしながら口を開いた。
「戻って来るなって言ったろ」

それは拒絶するような突き放した言い方ではなくて、どこか本心を隠しているみたいな雰囲気があった。優菜はそれに対して何か言うわけでもなく、軽く笑って返した。

そして少しの間、穏やかな沈黙が続いた。これまで一緒に過ごしていた時も会話のない時間なんて幾らでもあったはずなのに、向かい合っているせいか言葉を見つけようとして、そうしようとするほどに何を言えばいいのかが分からなくなってしまう。優菜は視線を落としたまま口を開く。
「竜一さんは……」

優菜はそこで言葉を詰まらせてしまう。そして一呼吸置いたあと思い切ったように顔を上げて言葉を続けた。
「ぜったい良くなるから! そしたら、一緒にまた桜見に行こ」
「……ありがとう」

竜一は少し力の抜けた小さな声で返事をする。
別れの挨拶を終えて、優菜は病院の入り口の方で先に待たせていた家族の車の方へと歩いていく。竜一は立ち止まったまま優菜の後ろ姿を眺めていた。

優菜は車の後部座席に乗り込むとすぐに窓を開けて、竜一に向けて小さく手を振る。竜一も胸元で控えめに手を振り返した。やがて車は走り出して、優菜と竜一はお互いの姿が見えなくなるまで見送った。

車の音が聞こえなくなるまでその場で立ち続けたあと、竜一は中庭の方へとゆっくり歩いていく。

はっきりとした青色に染まった、まるで夏の晴天の日のような空。凛とした春の大気と混ざる暖かな陽の光。中庭に高々と立つ満開の桜の樹を眺めながら竜一は立ち尽くしていた。

半年と少しの月日が経って、優菜は病院の中庭のベンチに腰掛けていた。ここにいるのは見舞いではなく、患者としてだった。

定期検診を受けてすぐに再入院を勧められた。これで三度目の入院で、再発を宣告されたときももはや大した驚きはなかった。

数か月前に竜一の見舞いにここを訪れたが、案内窓口の担当者に現在は家族のみ面会を受け入れていると言われてしまった。思い返せば竜一に家族以外が会いに来ていたことは一度もなかったので、面会ができないことは特に驚きはなかった。

不謹慎ではあるが、再入院が決まったとき優菜は竜一に会えることを思うと、それだけは嬉しかった。入院も苦ではないとすら思えた。

入院して患者服に着替えた時、学校の制服よりもすっかり着馴れてしまった患者服に優菜は妙な安心感を覚えた。以前着ていたものより少しだけサイズが変わっていて、自分の背丈が伸びているのを感じられた。髪も伸びて、少し大人っぽくなったような気でいた。半年以上振りに会う竜一はどんな風に変わったのだろうかと想像した。

戻ってきた自分を見て彼はどんな顔をするだろう。笑ってくれるだろうか。

ほんの僅かに緊張感を覚えながら、竜一が現れるのをベンチに座りながら待っていた。

陽が傾いて夕暮れの雲が赤く染められていく。肌の感じる温度が少しずつ冷たくなっていく。どれだけの時間ここにいるのか分からない。

やがて空はだんだんと濃紺色に埋められていって、星が瞬き始める。

その日は結局、竜一が現れることはなかった。

考えてみれば、竜一とは中庭で会うばかりで一度も彼が入院している部屋に行ったことはなかった。

看護師は守秘義務があるので他の患者に関することを話すことはできない。竜一のことを知る手立てがあるとすれば、他の患者から聞くことだけだった。とは言っても、竜一は一人で過ごしているのがほとんどで、彼をよく知るのは自分しか思いつかなかった。

翌日も中庭を訪れた。清々しい天気で、こういう日はほぼ必ず竜一は中庭にいた。

しかし今日も竜一の姿は見えない。ベンチに座って、どうすればいいか考えていると、目の前をお年寄りの男性患者が通りかかった。

優菜はすぐに立ち上がって、その老人に駆け寄った。
「あの、すみません!」
「ん……なにかな」

老人はゆっくりとした動作でこちらへ振り返った。
「ここでよく絵を描いていた男の子のこと知ってますか?」

優菜はベンチを指差しながら言った。
「絵描きの男の子ねぇ…………」

そう呟きながら自分のを頬を指でさする。次の瞬間、なにかを思いだしたように「あ」と声を漏らした。優菜は思わず食い気味に訊く。
「何か知ってますか?」
「思い出した思い出した。つい最近までいたなぁ」

それを聞いて、一瞬身体が異様な緊張感に包まれた。
「なんかー、退院したとかって看護師さんらが話してんの聞いたがねぇ」
「そ、そうなんですか……」

すでに竜一は退院していたのか。だとしたらなぜ連絡の一つもくれないのか。

優菜は老人にお礼を言って、再びベンチに座る。

竜一はメールやメッセージといった文字でコミュニケーションを取るのが苦手らしく、連絡手段として電話番号だけは教え合っていた。ただし優菜の方から連絡するのは禁じられていた。

優菜は携帯電話を取り出して、連絡先リストを開く。登録している数が少ないおかげで、すぐにその名前を見つけた。『竜一さん』という名前で保存された連絡先のページを開く。彼の電話番号が表示される。

タップすればすぐに電話が掛かる。押そうとした手を優菜は寸前で止めた。

掛ければ竜一は電話に出て、久しぶりに声を聞くことができる。会いに来てもらうことができる。そう頭で考えながらも、電話をかけるのをどうしてか躊躇してしまう。

ゆっくりと目を瞑り、深呼吸をする。

そして意を決して電話をかけた。

耳に押し当てた携帯電話から呼び出し音が鳴る。それが何度も繰り返される。

呼び出し音が鳴り続けるその時間が途轍もなく長く感じられた。心臓の鼓動が早くなる。息が苦しくなる。

そして次の瞬間、声が聴こえた。
『お掛けになった電話をお呼びしましたが、お出になりません』

それは自動的に流れる音声アナウンス。竜一は今電話に出られない状況なのだろうか。どうしようもない不安に襲われる。

まあ、気付いたら掛け直してくれるだろう。そんな風に考えながら、ひとまず自分の部屋に帰ることにした。

病室に戻った優菜は仕切り用のカーテンを閉めてベッドの上で横になって、床頭台の上に置いた携帯電話を虚ろな目で眺めていた。

しかし、待てども待てども優菜の携帯電話に着信が入ることはなかった。

気付けばまた中庭のベンチに優菜はいた。辺りにある落葉が以前より増え、次第に地面を埋め始めていた。

電話をかけた日から数日が経過したが、まだ連絡が入ることはなかった。最悪の想像が優菜の頭をよぎるが、先日会った老人は確かに『退院した』と言っていたのだ。

きっと自分は嫌われてしまったのだろう。

いや、最初から嫌いだったに違いない。

自分みたいな子供の相手をするのが、本当は嫌だったのだ。いつも周りをうろつかれて鬱陶しいと思っていたのだ。きっとそうだ。

──嫌いじゃない。

あの日の竜一の言葉が脳内で再生される。

嘘つき。

言い表せられない感情が溢れる。
「あの……川田優菜さん……ですか?」

優菜は突然声をかけられて驚きながら振り返った。そこには見知らぬ中年女性が立っていた。モデルのようにすらっとした体型で、綺麗な人だ。
「そ、そうですけど」
「突然ごめんなさい。私は竜一の母の福永眞美子です」
「あ……」

彼の名前を聞いて、そして突如現れた竜一の母親を前にして気が張り詰め、優菜は言葉を詰まらせてしまう。

そして恐る恐る、僅かな希望に縋るかのように訊ねた。
「竜一さん……退院されたんですか?」

自分でも驚くほどに声が震えた。

そして少し間を置いて、眞美子は応える。
「……はい」

その声色で、躊躇いで、優菜は察してしまう。

感情の整理ができない。頭の中で様々なものが交錯していく。
「あなたにこれを……と息子から頼まれてまして」

そうして大きな封筒を差し出す彼女の目には涙が浮かんでいた。

戸惑いながら優菜は封筒を受け取った。手に持った感覚で何枚かの紙が入っているのがわかった。逸る気持ちですぐに中身を取り出した。

その瞬間、久しい彼との記憶が鮮明に蘇る。

『それが嘘でも、美しければいいかなって』

──彼が見ている世界は私とは全く違っていた。

『優菜、俺らはなんで生まれてきたんだろうな』

──私にはわからなかった。わかりたかった。

彼の声が、頭の中で何度も響き渡る。

胸の奥の方から熱が込み上げる。その熱で、これまで凍てついていた氷が一気に溶け出したみたいに、優菜の目から涙が溢れた。

優菜の手には一枚の画用紙。

彼が描いた水彩画。

そこに描かれていたのは息を飲むほどに美しい紅葉の樹と、そして優菜だった。
「こんなの……」

それは眞美子や誰かに向けた言葉ではない。ぐちゃぐちゃになった優菜の心の中の言葉が自然と流れ出てきてしまったもの。
「こんなの描いてくれたって……あんたがいなきゃなんも嬉しくない」

自分でも滅茶苦茶なことを言っていると感じながら、それでも溢れ出るこの哀しみを、行き場のない虚しさを、どこかにぶつけたくて仕方なかった。十四歳の優菜にとって、それを受け入れるのはあまりにも辛いものだった。

眞美子が心に秘めていた感情を、優菜の言葉は代弁してくれた気がした。母親として、彼が遺したかったものを否定するようなことは考えてはいけないと思っていた。でも、当たり前のことだ。竜一がいないと意味がないのだ。

眞美子は優菜に背を向け、嗚咽を堪えるように手で口を覆うが、それを抑えきれない。指の隙を涙が流れ落ちる。

零れ落ちた涙で水彩が滲む。

込み上げる悔しさから、衝動的に絵を破りそうになるが、すぐにその手を止める。

そして画用紙の裏の端の方に慎ましく文字が書かれているのを見つけた。

きっとこの作品の題名だろう。
「『秋うらら』……」

噛み締めるようにその名を口にした。

十五歳の優菜。立冬の頃。

病室の窓辺から見える落葉樹が次々と葉を散らしていた。

ベッドの上で竜一の絵を眺めていた。

竜一がいなくなってからもう一年が経った。優菜は以前より明らかに身体が弱っていた。

全身が痩せ細り、骨ばった部分が座っても寝転んでも痛い。寝返りを打つことさえ苦しい。さらには薬の副作用もある。眠れない時間が日に日に増えていく。

あの日からずっと『死にたい』と『死にたくない』という気持ちが浮かんでは消えてを繰り返している。

竜一と過ごしたあの頃、あれほどまでに強く生きたいと願っていたはずなのに、今の自分は死を待つだけの存在と成り果てた。

彼とまた桜を見ることができるだなんて、向こう見ずな夢を願っていた。今にして思えば本当にあの頃の自分は馬鹿だったと感じる。

生きるということは喪失の連続だ。どんなものにも必ず終わりはある。それを受け入れなければならない。

夏の清々しい緑の葉が秋には鮮やかに紅葉し、やがて葉を落としてしまうが、その枯葉は地を肥やす。そしてまた春には花を咲かせる。変化というものはとても悲しくて、とても美しいものだ。

私達も、また生まれ変わるのかもしれない。

そしたらまた会えるのだろうか。

それでもやっぱり、今ある命が惜しい。

竜一は自分を待っているだろうか。それとも、生きてほしいと願っているだろうか。

──もう戻って来るなよ。

退院の日に竜一が言った言葉を思い出す。それは優菜に元気でいてほしいと望んでいるからこその言辞に違いない。

竜一は自らの死期を悟っていたように思う。晩年の竜一は、優菜に自分が弱っていく姿を見られたくなかったのだろう。いや、思えば初めから彼は人生の終わりが見えているみたいだった。

彼が絵を描くのは単なる暇潰しなんかじゃなくて、狭苦しいこの世界で自由に生きることができる唯一の方法だった。

嘘でも美しい世界を、自らの手で創りたかったのだと思う。

今となってはもう、竜一が何を感じ、何を思い、何の為に生きていたのかを知ることはできない。せっかくなら手紙の一つでも残してほしかった。そういうことを嫌う人間であることは重々理解しているつもりだが、それくらいの文句は許してほしい。

冷ややかな風が優菜の髪やカーテンを揺らす。窓が少し空いていることに気付いて、優菜はベッドから起き上がり窓辺に向かう。

視界に飛び込むのは落葉樹。無数に別れる枝の幾つかがこちら側まで伸びている。その一本に、もうほとんど色褪せた紅葉が二枚、寄り添うように、しがみつくように、まだ僅かに枝に繋がっていた。

優菜はそれを見て、まるで竜一と自分のようだと思った。そんなことを考える自分に思わず可笑しくなる。

しかし、今にも風が攫ってしまいそうな憫然たる様に、優菜の心は掻き乱されていく。

──行かないで。

今ならまだ間に合う。

優菜は窓を開ける。

身を乗り出し、その手を伸ばした。

そして、木枯らしが吹き荒んだ。

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