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月詠み
2nd Story
「それを僕らは神さまと呼ぶ」
Chapter:003 導火

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2nd Story

Chapter:003導火

不規則に乱れる呼吸が、さらに心臓を動悸させる。血管が収縮し、手足の先からじわじわと体温が下がっていく。全身の筋肉が強張る。無意識に握り込んだ手に爪が食い込む。そこから生じるぴりぴりとした軽い痛みを、少し遅れてから感じ取った。

仄暗い校舎の階段。彼女が上った後を追っていく。上履きの底が地に貼り付くように重い。その足を剥がしながら一歩一歩持ち上げて進んでいく。慄然として乾いていく喉に生唾を押し込む。一つ踏み込む毎に胸の拍動が速まる。上履きの擦れる音が異様に耳障りに感じていた。踏み込んではいけない領域に踏み込んでいるのだと警告するように、背筋が怯えていた。

最後の階段を上り切る。屋上へと続く扉を、音も立てないくらいにゆっくりと開ける。

開いた瞳孔に、沁みるような強い光が差し込んでくる。眩むほどの白さに照らされ、一瞬の間視界が奪われる。反射的に目を細めて、左手を顔の前に翳しながら、扉のレールを跨ぎ、屋上に足を踏み入れた。

指の隙間から彼女の姿を捉える。
「照那?」

千春が呼びかけた声は、冷たく静謐な空気に吸われて消えていく。だんだんと目が慣れていく。光に順応した瞳が映す光景──フェンスの向こう。パラペットの上に立つ照那の後ろ姿。襟首辺りまで伸びた彼女の髪を風が揺らして、時折白いうなじを覗かせる。
「ねえ、なにしてるの」

千春は先ほどより大きな声でもう一度問いかけた。努めて平静を装って。しかしその声は微かに震えていたかもしれない。恐れを押し殺して、その上に閑やかさを塗り足したのがわかる声だった。
「待って」

そう応えながら彼女の顔がほんの僅かにこちら側を向く。風に流れる髪の隙間から、睫毛だけが見える程度に。表情はわからない。それでも、これが異様なシチュエーションであることは明白で、今から起こる最悪の展開を千春は容易に想像できた。

照那は少しずつ足の位置と角度を変えていき、やがて完全にこちら側に体を向ける。千春はその様子を怯えるように見ていた。

彼女はゆっくりと両腕を広げる。まるで鳥のように。そして十字形のシルエットを作る。千春は咄嗟に照奈の方へ駆け寄りながら腕を伸ばす。
「ごめんね、千春。……ゆるして」

その瞬間、照那の身体が宙に躍り出た。その姿がスローモーションになる。彼女の細い四肢が、小さな頭が、細い腰が、宙へと投げ出される様が、ゆっくりと千春の目に焼き付く。スカートが風に揺れる様すら克明に捉えられる。千春はそれをただ見ていることしかできなかった。

真っ逆さまに地上へ吸い込まれていく。

重力に引かれた身体はやがて地面に叩き付けられ、鈍い音が届いた。

次の瞬間、千春は別の場所にいた。見慣れた天井。見知った部屋。徐々に意識がはっきりとしてくる。

全ては夢だったことを理解する。

心臓はいまだに早鐘を打っている。鼓動が体の外へ漏れ出るような感覚を覚えるほど激しく動いていた。浅い呼吸。粟立つ肌。左胸を押さえながら天井を仰ぎ、激しくなった呼吸を次第に落ち着かせると、汗をかいていたことに気が付く。額にも瞼にも髪の生え際にも不快感がまとわりつく。それを拭おうと持ち上げた手が震えていた。

酷い夢を見た、と千春は思った。

壁に掛けられた時計を見やると、時刻は五時前を指し示していた。普段起きる時間よりかなり早かったけれど、もう一度眠りたい気持ちにはなれなかった。

夢だというのに、その痕跡はあまりにも鮮明で、瞼を閉じることすら躊躇う。

人が死ぬ夢ではあるけれど、これは例の予知夢じゃない。きっとこれまで見てきた死の場面が反芻して引き起こしたもの。

照那が死ぬ夢はこれより前にすでに見ている。だからもう大丈夫なはず。今日見たのはただの悪い夢。そんな根拠のない慰めを自分自身に言い聞かせてみる。

まず、この予知夢に確かな法則などあるのだろうか。夢で見たこと、それが現実で起こること。全ては自分の主観だけの情報でしかない。何か見落としはないだろうか。

思考を巡らせると、先程の夢の最後に見た照那の顔がフラッシュバックした。

今はもう考えるのはやめよう。

カーテンを開けて外の様子を伺う。空はまだ暗く、街灯にぼんやりと照らされた道路だけが仄白い明かりを放っていた。

学校に行っても、今朝見た夢が妙に気に掛かって落ち着かなかった。登校前に送ったメッセージにも返事がなかった。もともとすぐに返事が来るタイプではないし、珍しいことではないのだけれど、今日に限ってはそれが不安を加速させた。

早起きし過ぎた影響か、昼前の授業で眠気が襲ってきた。なんとか耐えようとするものの、頬杖を突きながら自然と瞼が降りてくる。だんだんと意識がぼやけていく。周囲の声や音が遠のいていく。
『──千春』

何もない真っ白な空間で誰かが自分の名前を呼んでいる。目の前にいるその人の姿を見ようと目を凝らす。おずおずと歩みを進めていく。だんだんと、声の主の姿──その輪郭が明瞭になっていく。見慣れた姿。そこにいたのは照那だった。

彼女に近づいた途端、足元に亀裂が入る。たちまちその空間を覆う周囲の地面や壁が、砕けたガラスのように粉々になっていく。

気付けば空の上に投げ出されていた。それは落ちていると言うより浮かんでいるような、不可思議な感覚だった。

地上は遥か遠い。目前には雲と共に何か大きなもの──視界に全貌が収まらないほどの大きさの〝なにか〟が漂っている。それを目で辿っていく。

やがてそれが何なのかを認識する。それを千春は知っている。骨だ。途轍もなく巨大な骨が、蛇のように蠢いている。まるで生きているみたいに。

空中に浮流する千春と照那は互いに手を伸ばし合っていた。

二人の周囲を取り巻く気流が乱れていく。それはあっという間に強くなっていく。巨大な骨を中心に渦を巻いていき、まるで竜巻の中にいるかのようだった。

千春と照那は互いの名前を同時に叫んだ。しかしその声は突風に流されたのか、轟音に飲み込まれたのか、届くことなく消えてしまう。

更に強さの増した気流に身体を吹き飛ばされ、千春は照那を見失う。

目もまともに開けていられない程の強風の中、ふと微かになにかが視界に映った。得体の知れないそれと、確かに目が合った感覚があった。凍てつくような悪寒がぞくりと背筋を通った。

それと同時に、浅くチープな鐘の音が鳴った。聴き慣れた学校のチャイム。千春は現実に引き戻される。

昼休みを告げるチャイムが鳴り、千春は勢いよく席を立った。千春に声を掛ける友人を振り切り教室の外へ駆け出した。

別棟へ繋がる渡り廊下を抜け、階段を駆け上がっていく。

息を切らしながら階段を上り切って、屋上へと続く扉を勢いよく開けた。冷たい外気が一気に体を擦り抜けていく。

直感した通り、そこに彼女はいた。
「あれ、千春。どうかした?」

千春は返事をするより先に照那に駆け寄り、飛び込むように彼女の身体を抱き締めた。照那の背に回した手に力が入る。
「ち、千春?」

照那は困惑しながらも、それに応えるようにおずおずと千春の背に手を回す。
「照那、」

千春の不安を帯びた声色に何かを感じ取ったのか、照那は優しく背を撫でる。

──ああ、ようやくわかった。私は照那を失うのが怖いんだ。

そう千春は思った。

運命の輪から外れた照那は、千春に待ち受ける〝死〟に逆らう希望であり、可能性を秘めた存在。だから必要なのだと思っていた。今は──それだけじゃない。そんな利己的なものじゃなく、自分にとって失いたくない存在。
「大丈夫?」

彼女は心配そうに、壊れ物に触れるかのように優しい声で言う。
「なんでもないの。怖い夢を見ただけ」
「夢? いつものアレ?」
「ううん、そうじゃないの。ちょっと、ね……」

今朝の夢を話そうとして、やはり黙っていることにした。

しばらくの間、そのまま動かないでいたが、だんだんと冷静になるにつれ小恥ずかしさが沸いてきて、千春は照れたような表情で照那から離れる。

なんだか気まずくて、千春は何か言おうと言葉を探すがなかなか出てこない。
「夢といえば、私も変な夢見たよ」
「変な夢?」

千春は首を傾げる。
「なんかね、私達が正義のヒーローみたいなのになって悪いやつと戦う夢」
「何それ、変なの」

二人は愉しげな笑みを溢す。

くだらない夢の話。けれど照那は本当に私を救う存在なのかもしれない──と千春は思った。

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