2nd Story
- Chapter:004
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商店街の脇道に聳える、古びた廃ビル。長い年月を経て、時間の流れに押し潰されるように荒れ果てていた。何もかもが老朽化していて、外壁は崩れ、ところどころ鉄骨が剥き出しになっている。ロッカーやデスクや椅子など、過去にオフィスか何かに使われていたような痕跡がある。
二つの人影が階段を登っていく。
そのうちの一人は男性。男性の顔には深い恐怖が浮かんでおり、目は虚ろだ。何かに追い詰められているような雰囲気が漂っている。
その男性のすぐ後ろに、もう一人の存在があった。体型が分かりにくい服装で、性別は不明。その人物もまた無言で男性を見つめている。フードを深くかぶっており、そこから覗く顔は暗闇に溶け込むようにほとんど見えず、異様な雰囲気を感じさせる。
影のようにその場に佇んでいるその人物の手元には、刃物が握られていた。刃物は男性の背に突きつけられている。
屋上にたどり着き、そのまま端の方まで歩くと、男性は力なく立ち止まる。彼の呼吸は荒く、足元がふらついている。小雨が混じる風が吹き抜ける屋上で、空気は酷く冷たく、まるでこの世の終わりが近づいているかのように感じられる。
男性は声を震わせながら、背後の存在に向かって何かを呟く。しかし、返ってくるのは無言のままの、ただひたすらに冷たい視線だけだ。心の中で必死に抗っているのが分かるが、その手元の刃物に支配され、絶望的な状況から逃れることはできない。
もう一人が何かを言葉にする。しばらくの沈黙。
男性は口元に弧を描く。するとゆっくりと屋上の端に近づく。
男性は覚悟を決めたように足を踏み出す。瞬間的に風が強く吹き、彼の体が宙に浮かんだかのように感じる。彼は一度、下を見下ろしてから、もう一度目を閉じる。そして、まるでその恐怖を全て受け入れたかのように、飛び降りた。
男性が落ちる音が空虚な廃ビルに響き、何もかもが静まり返る。空気は重く、時間が止まったような感覚に包まれる。
一切の音が消え去った後、残されたもう一人──フードの人間が動き出す。自分の足元に名刺が落ちているのを見つけ、それを拾い上げる。
名刺を手に取ると、その文字が目に飛び込んできた。
〈フリージャーナリスト 石上真矢〉
その瞬間──再び風が強く吹き、その人物のフードが完全に捲れ上がった。
そこで千春は目を覚ます。
強い頭痛がする。ぼんやりとした視界の中で、夢がまだ余韻を残している。これまで見てきた夢の中でも、かなり不気味な内容だった。
廃ビルにいたあの男性、そしてその背後にいたもう一人。千春はその姿を思い出そうとする。しかし、顔がどうしても思い出せない。風によってフードが捲れた一瞬の光景と、冷たい刃物の輝きが脳裏に焼き付いている。
「女……?」フードが捲れた瞬間に見えた髪の一房と輪郭。微かに光を反射する長い髪が一瞬だけ風に舞った。それは女性を思わせるものだった。
そして、その〝フードの人物〟によって死に追いやられた男性。拾い上げた名刺に記された名前──石上真矢。
千春はそれを忘れてしまう前に近くにあったメモにその名前を書き記す。そのメモを眺めながらベッドに仰向けに寝転がる。
〈フリージャーナリスト 石上真矢〉
その名前に覚えはない。あの男性が石上真矢なのだろうか。まだわからないが、大きな手掛かりには違いない。
彼が石上真矢であると仮定して、まず気になるのがフリージャーナリストという肩書き。特定の組織に属さず、自由な立場で情報を追い求める職業。自由である反面、社会の裏側に踏み込むこともあるとすれば、きっと危険も多い。時には、権力や犯罪者の利益を脅かす存在となり、命を狙われることもあるのかもしれない。そうして、何か深刻な事実を追い求めた結果、あのような結末を迎えてしまったのだろうか。千春はやや眠気さの残る頭で、そんな想像をする。
千春は天井を見つめながら夢の内容に浸っていた。男性が廃ビルから飛び降りる場面が生々しく浮かび上がってくる。
頭の中で渦巻く考えに耐えきれず、千春はようやく重い体を起こすと、机に向かった。目の前に置かれたノートパソコンを起動させ、キーボードに触れる。
「石上真矢……」千春はその名を呟きながらインターネットの検索エンジンに名前を入力する。数秒後、画面にいくつかの検索結果が表示され、その中に「フリージャーナリスト」として活動していた人物の情報が出てきた。リンクをクリックし、いくつかの記事や関連するページを開いていく。
その中の一つの記事に、石上真矢の顔写真が掲載されていた。千春は息を呑みながら、その顔をじっと見つめる。先ほど夢の中で見た、あの廃ビルで追い詰められていた男性の顔と一致する。
千春は、彼が石上真矢であると確信する。予知夢で見てきた人間をこれほど早い段階で特定できたのは初めてのことだった。
その日の昼休み。照那は校舎屋上に足を踏み入れる。軽やかな風が全身をすり抜ける。薄曇りの空が広がっている。フェンスの近くに立つ千春の後ろ姿が目に入った。彼女は遠くを見つめながら、どこか物思いに耽っているようだった。
静かに歩み寄りながら照那は声をかける。
「話って?」照那の声に呼応するように千春は照那を一瞥すると、再び視線をフェンスの向こうへと戻す。そしてゆっくりと口を開いた。
「夢を見たの」
「今度はどんな?」照那は千春の隣に立ち、同じように景色を眺める。
「どこかの廃ビルで……男の人と、フードをかぶった人が二人……、そして男の人はもう一人に刃物を背中に向けられていたの。男の人は従うように階段を登っていって、屋上に辿り着く。フードのそいつが何かを言うと、男の人はそのまま飛び降りてしまったの」
「………………」照那は無言で千春の話を聞きながら、無意識に手が強張っていた。そしてどこか違和感を覚えていた。
「……それって、殺されたってこと……でいいんだよね?」
「状況的にはそうなるね」
「……人が殺される夢って珍しいね」
「…………あ……」千春は目を見開き、何かに気づいたように顔を曇らせた。そしてしばらく考え込んだ後、静かに頷いた。
「どこかで誰かが死ぬ夢をこれまで見てきたけど、確かにそれは……だいたいは自殺だと思う。……でも、」千春は何かを言いかけるが、ためらうように口ごもる。
「なんでもない」と誤魔化すようにそう言うと、千春は話を続けた。
「それで……その飛び降りた男の人の名刺を、フードの人が拾い上げたの」照那は千春を見やる。 「じゃあ……その人の名前はわかったのか」
「そう。それでネットで調べてみたら確かにその人だったの」
「そんなに早く手掛かりが見つかるなんて……幸先いいんじゃない?」照那がそう言うと、千春は首を横に振った。
「名前と顔はわかったんだけど、連絡先がわからなくて……」
「そっか……」そう簡単に上手くはいかないか、と肩を落とす。
「これ」千春は二つに折られた一枚のメモを照那に差し出す。照那はメモを受け取り、そこに書かれた文字を確認する。
「フリージャーナリスト、石上……真矢…………」照那はメモに記された名前を読み上げながら、明らかに顔を歪ませた。
「もしかして、知ってるの?」千春が尋ねると、照那は少し沈黙を挟んでから静かに話し始めた。
「前に……会ったことがある」照那の表情や声色からして、ただの知り合いではないのだろう──と千春は思った。
「どこで会ったの?」千春は慎重に尋ねた。
「友達が……瑠璃が亡くなったあと。半年くらい経ってから、私を訪ねてきたんだ。瑠璃のことを調べるために」
「……そうなんだ」照那は少し間を置き、何かを思い出すように視線を遠くへ向けた。
「悪い人ではなかった。でも、その石上さんに取材を受けているのを学校の人に見られてさ。それを邪推されて……」照那は言い淀みながら俯く。
「私が瑠璃を殺したとか……噂されるようになってさ……」
「照那……」千春は照那の話を聞きながら、照那と出会った時のことを思い出していた。
このフェンスの向こう、パラペットの上に立つ照那。自ら命を断とうとしていたあの日の彼女が、どれほどの苦しみを背負っていたのか、痛いほどにわかる。
「そうだ……。その時、石上さんから名刺をもらったんだけど、それに連絡先が書いてあったと思う……!」千春はその言葉を聞き、目を見開いて照那の方へ顔を向ける。逸る気持ちを抑えながら尋ねる。
「その名刺、まだ持ってる?」千春の質問に、照那は静かに頷く。
「たぶん家にあると思う」
「よかった……」見失いかけていた手掛かりが突然見つかり、千春は安堵する。照那はその様子を見ながら、少し寂しげに微笑んだ。
「こんな偶然ってあるんだね」
「……そうだね」千春はしばらく黙って考え込んだ。
予知夢の残酷な結末を変えようとして、自分達は何度も失敗してきた。そして、ようやく希望の糸口を掴める機会を得た。
思い掛けず見つけた手掛かり。しかしそれは──。
「気にしなくていいよ」千春の思考を遮るように照那は言った。
「千春が考えてることならわかる」
「……照那…………」照那は遠くを見つめながら続けた。
「瑠璃が死んでなかったら、石上さんは私の前に現れなかった。これは瑠璃がくれた機会だと思う」照那は少し間を空けてから笑みを浮かべた。その表情は気丈に振る舞っているようだったが、どこか決意を秘めたものであった。
千春はそれに小さく頷き、そのまま二人は景色を見つめていた。
予知夢。石上真矢。瑠璃。そして照那。様々な感情が複雑に交錯する。導かれるように、抗う為に、千春は見えない深みへと踏み込んでいく。
薄曇りの空の下。心には少しずつ確かな希望の光が差し込みつつあるのを感じていた。
放課後。千春と照那は、石上真矢の事務所があるという雑居ビルの前に立っていた。ビルは少し古びた外観でどことなく不穏な雰囲気を放っている。
二人は少しだけためらいながらも、ビルの中に足を踏み入れ、薄暗い階段を登る。
石上の事務所のある階に辿り着く。千春はやや緊張した手つきでインターホンのスイッチを押す。ゆっくりとした呼び出し音が鳴り、少しの間静寂が続いた。しばらく待ってみるが音沙汰はなく、千春と照那は顔を見合わせる。
扉の向こうに人の気配は感じない。念の為扉をノックしてみるが、何の反応もない。
「いないね……」
「うん、でもまだ時間はあるから……」二人は出直すことにして、登ってきた階段を降りる。ビルの出入口を出たところで、足音がこちらへ近づいてくるのが聞こえた。
足音がする方へと振り返ると、一人の男性の姿が見えた。黒いコートを羽織り、神妙な顔つきをしながら俯き加減で歩いている。
「……石上さん?」千春がその人物を見つめ、声をかける。石上真矢は一瞬、驚いたような顔をした後、ゆっくりと近づいてきた。
「君たちは?」石上真矢は少し眉をひそめて、二人の顔を交互に見つめた。その表情には、驚きとともに警戒の色が浮かんでいるようだった。
「あの、お久しぶりです」と、照那は不安げな声で言った。石上は照那の顔を凝視すると、思い出したように応えた。
「君は……宇栄原さん、だったか?」
「はい。こっちは……友人の千春です」照那は千春の方へ手を添えて紹介する。
「阿形千春です」千春が丁寧に頭を下げると、石上はコートの内から取り出した名刺を差し出して返事をする。
「フリージャーナリストの石上真矢だ」千春はおずおずと名刺を受け取ると、それをじっと見つめる。それは予知夢で見たものと全く同じデザインの名刺であった。
「どうした?」千春の表情の変化に気付いた石上が怪訝そうに尋ねる。
「いえ、なんでもないです」
「そうか。……それで、今日はどういった要件で?」石上がそう問いかけると、千春と照那は目を見合わせ、お互いに少し頷いてから、千春は石上に告げる。
「石上さん、あなたは近いうちに……命を落とします」
「…………なんだって?」驚く石上を、二人は真剣な表情で見つめている。石上は思わず息を呑んだが、すぐに冷静な表情に戻る。
「死神……」石上は二人には聞こえないくらいの声でぼそりと呟くと、何かを思案するように顎に手を当てる。
──近いうちに命を落とします。
それは冗談としか思えないが、二人は至極真面目な顔つきをしており、からかっている様子には見えなかった。
「……こんなこと言っても、信じてもらえないとは思います。でも、私にはそれがわかるのです」千春が真剣な声でそう言うと、石上は眉をひそめた。
「どうしてだ?」石上の声には、慎重さと少しの苛立ちが混じっていた。
「夢……いわゆる予知夢を見るのです」
「………………はぁ」呆れるように石上はため息を吐きながら肩をすくめ、苦笑を浮かべた。
「冗談はやめてくれ。そんな話を信じろと言われても、さすがに無理だ」
「それでも、……信じてください」と、千春は深刻な顔で言った。石上はその顔を見て一瞬罪悪感を覚えるが、考えは変わらない。
「……俺はジャーナリストだが、オカルトは専門外でね。悪いが、そういう話をしたいなら他のやつを当たってくれ」石上はそう告げると、自分の事務所があるビルの方へと歩き出そうとする。
「待ってください」千春は石上の腕を掴んで引き留める。石上は少し不機嫌そうに顔を振り向ける。そして千春は、決意を込めた目で石上を見ながら言った。
「今日から二日以内に……ルヴァン東京というホテルの高層階で男性が首を吊って死にます」千春の唐突な言葉に、石上は眉をひそめる。
「…………それも予知夢か?」
「はい」
「どうして二日以内だと?」
「ホテルから見える東京ミライタワー……そのタワーはライティングデザインが定期的に変わります。三日後からはクリスマスカラーになるのです。私が夢で見たのは、今の時期の色でした」千春は石上の問いかけに淡々と答えていく。
「……その男が誰かは?」
「そこまではわかりません。歳は三十代後半くらいに見えました」
「なるほど」と、石上は顔を曇らせながら、しばらくの間、千春の言葉を消化するように黙り込んだ。その後、重々しい声で問いかけた。
「つまり……予知夢の通りに、ホテルで男が首を吊れば……君の話を信じるしかない、ということか?」
「……はい。もしも信じてくださるなら、こちらに」千春は小さなメモを差し出す。それは千春の連絡先が書かれているもの。石上はためらいながらもメモを受け取り、千春の目を見た。曇りのない真っ直ぐな目つき。それは確かな強い意志を秘めたものではあった。
──どこか彼女を、一葉を思い出させる。そう石上は思った。
「わかった」と、石上はビルに向いていた足を元来た道の方へと転向させ、千春たちに背を向ける。
「あの……これからどこへ?」千春が尋ねると、石上は背を向けたまま言った。
「例のホテル……ルヴァン東京に行く。まだ君らの言葉を真に受けたわけじゃないが、気にはなるしな」そう言うと、石上は落ち着いた足取りで歩き出していく。二人は静かに、遠ざかる石上の背中を見送っていた。