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月詠み
2nd Story
「それを僕らは神さまと呼ぶ」
Chapter:004-0.5

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2nd Story

Chapter:004-0.5

劇的で激しいオーケストラと大仰な合唱が響き渡る。

──怒りの日。作曲家ジュゼッペ・ヴェルディの「レクイエム」の一節。それは石上真矢(イシガミシンヤ)の携帯電話から大音量で鳴り響いている。朝のアラーム音。

睡魔を無理矢理引き剥がすかのように、ヴェルディの「怒りの日」が耳元で暴れ回る。石上は重たい瞼をようやく開けた。全身が鉛のように重い。

手探りで携帯電話を探し、アラームを止める。静寂が訪れた部屋に、余韻だけがわずかに漂う。この音楽に無理矢理起こされるのは毎日のことだ。これをアラーム音に設定したのは、確実に目を覚まさせるためで、効果は覿面ではあったが日に日に不快感が増していく。

都会の喧騒から少し外れた静かな裏通り。その一角にある古びたアパートで、フリージャーナリストの石上真矢は、また今日も目覚める。枕に顔をうずめたまま、深い溜息をついた。

ようやく体をベッドから引き剥がし、重たい体を起こした。三十歳を越えてから、ますます朝が苦手になっている。睡眠不足が体に蓄積されるのを強く感じる。全身にまとわりつく疲労感は、年々抜けにくくなってきた。

起き上がった石上は、窓の外に目をやった。薄曇りの空が広がり、淡い光が薄らと部屋に差し込む。天気も気分もなんとなく陰鬱な朝だった。

石上は煙草に火を点けようとするが、ライターの火が出ない。苛立ちを感じながら、煙草を咥えたまま部屋を見回す。散らかった書類や未整理のノートが机を埋め尽くしている。すべてが現在進行中の調査に関するものだが、今の彼にはそんなものを整理する気力もない。

結局煙草は諦め、コーヒーメーカーに手を伸ばす。湯気が立ち上る黒い液体を注ぎながら、ぼんやりと今日の予定について考え始めた。

今日は人と会う約束をしている。その人と会う約束は七年振りほどになる。単なる古い知人との再会ではない。現在石上が追っている事件の調査の為だ。

──首都圏で起きている不可解な連続死。

昨年末、都内の片隅で一人の自殺者の遺体が発見された。現場は自宅から離れた廃屋で、携帯電話を所持していないなど不自然な点があったが、明確な遺書が自宅に残されていたこともあり、結局は自殺として片付けられた。

年間二千人近くが自殺する都内。自殺はもはや異常なことではない。警察が詳しく調査しなくても不思議ではなかった。

石上がその一件をただの自殺として見過ごせなかったのは、その自殺者が大学時代の後輩で、元恋人だったからだ。石上が知る彼女は、確かに比較的ネガティブ思考の人間ではあったが、自ら命を立つような女性とは思えなかった。いや、思いたくなかったという方が正しいが。

個人的な感情はともかくとして、その疑念が深まったのは、別で発見された他の自殺事件で共通する不審な点を見つけたからだ。それが数か月の間に全部で九人。もちろん偶然という線もあり得る。

自宅から離れた場所、整然とした現場。そしていずれも携帯電話を身につけていなかった。

失われた携帯電話──。この疑問が特に石上の頭にこびりついて離れなかった。携帯電話は現代社会においては単なる連絡手段ではない。あらゆる生活の基盤が携帯電話に依存している。だからこそ──自身の分身とも言える携帯電話の中身を、死後に他人に見られたくないと考えるのは特段おかしいことではない。ゆえにそれを処分してしまうというのも理解できなくもない。

いずれも自宅や現場やその周辺のどこにも携帯電話を処分した形跡がなかった。

──何者かが持ち去った可能性。

当然、本人がどこかに捨てた可能性は大いにあり得る。しかし、〝あるべき箇所に本人の指紋がついていない道具〟と〝行方不明の携帯電話〟という二つの不自然な要素が重なることで、それは無視できない事柄になってくる。

そうした同じ共通点を持って亡くなった九人は、確かにあまり順風満帆な人生を送っているとは言えなかった。

学校で虐めにあっていた者。仕事を解雇された者。借金をしていた者。恋人に振られた者。家族が亡くなった者。介護に疲れた者。重い病を患っていた者。

それぞれに動機は存在していた。

石上はコーヒーを一口飲んだ。苦味が舌に広がる。脳内に張り詰めていた霧が、少しずつ晴れていくような感覚を得る。

数日前に石上はとある人物のSNSアカウントを調べた。

石上が追う九人の自殺は、あくまで個人による調査で石上が共通点を見つけて推察しているだけであり、自殺として見ている警察は踏み込んだ捜査を行っていない。ゆえに、彼らがネットでなにをしていたかまでは調査されていない。

この件の調査を始めるきっかけとなった石上の元恋人──蒼山一葉(アオヤマカズハ)。彼女のアカウントを見つけるのは容易だった。

最後の投稿は、死の三か月前。友人と旅行に出掛けたことと旅行先の写真を載せていた。それより前の投稿には、日常の出来事や友人との楽しそうな写真が並んでいた。

石上はその写真をじっと見つめる。蒼山一葉の笑顔がそこにあった。死を選ぶような人間には見えない。しかし、SNSに現れる姿が人間の全てではない。

旅行中の写真に一葉と共に写っている女性には見覚えがあった。髪型や化粧が変わっていてすぐには気付かなかったが、その人物は一葉と同じく、石上の大学時代の後輩。名は赤坂美津子(アカサカミツコ)。

それが、今日会うことになっている人物。

赤坂美津子。彼女とは大学時代、一葉を通じて何度か顔を合わせたことがある。しかし、卒業後は疎遠になり、彼女のその後の人生について石上はほとんど知らなかった。

石上は時計を確認すると、まだ約束の時間まで少し余裕があることに気づいた。それでも、妙な焦燥感が胸の中でくすぶり続けている。

石上はコーヒーを飲み干し、空のカップをキッチンに置くと、着替えを済ませてアパートを出た。

秋風が冷たく肌に触れるが、その冷気が彼の目を覚まさせるように感じられる。

待ち合わせているカフェに向かう道中、石上はふと、蒼山一葉の死の直後に起きた数々の出来事が頭をよぎった。彼女が亡くなったあの日から、石上の人生は何かが大きく変わってしまった。彼女の死に対する疑問と後悔、それを追い続けるうちに、石上はジャーナリストとしての本来の仕事が次第に疎かになり、彼女の死に執着するようになっていたのだ。

一葉の死からはもうすぐ一年になる。

カフェに着いた石上は、窓際の席に腰を下ろし、赤坂美津子が現れるのを待った。注文したコーヒーを前に、彼の頭はこれから始まる会話と、それに続くであろう次の一手を考えていた。

やがて、入口のベルが鳴り、美津子がゆっくりと入ってきた。彼女は以前とはまるで別人のように変わっていた。髪は短く整えられ、服装も都会的で洗練されている。だが彼女の活気のない目と痩せた身体から、心身が疲弊しているのを感じられる。
「久しぶりですね、石上さん」

彼女は微笑んだが、その笑みはどこかぎこちなかった。石上も微笑み返しながら、席を勧めた。
「本当に久しぶりだな、美津子」

二人は静かに向かい合い、お互いの近況を報告したところで言葉が途切れた。石上は彼女の顔をじっと見つめ、そして問いかけた。
「さっそくで申し訳ないが、一葉のことで色々と話を聞きたい」
「はい」

美津子は少し息を吸い込み、静かに語り始めた。
「一葉とは、ずっと連絡を取り合っていたわけではなかったんです。大学を卒業してからもたまに会うことはあったけれど、お互いに仕事が忙しくなって、それからは年に一度か二度会うか、そんな感じでした」

美津子は視線を落とし、テーブルの上で手を組んだ。
「去年の夏、一葉から連絡が来たんです。あの子の声がいつもより少し元気がないように感じて、元気付けてあげようと思って旅行に誘ったんです」

美津子はそこで一度、言葉を切った。石上は黙って彼女の話に耳を傾ける。
「旅行中、一葉は普段通りに見えました。笑って、話して、特に悩みがあるようには思えなかった。でも、やっぱりどこか変だったんです。旅館の部屋で過ごしてる時に、私が仕事の電話を受け取って部屋の外に出て、話し終えて戻ったら……一葉が寝てたんです。座卓の上に置かれた一葉のスマホの画面がつけっぱなしになってて、それで見ちゃったんです」

美津子は表情を曇らせながら、少し言いづらそうに口籠る。
「見たって、何を?」
「いわゆる……自殺系サイト? そんな感じの掲示板を見ていたんです。そこで初めて、一葉がそんなことを考えているのかもしれないって気づいて……。でも、その時は何も言えませんでした。もしそのことを問い詰めたら、彼女が余計に追い詰められるんじゃないかって、怖かったんです」

石上は静かにうつむきながら、彼女の言葉を受け止めた。
「……後悔しています。…………あの時にちゃんと、一葉に何か言っていれば、こんなことにならなかったんじゃないかって」

美津子の目には涙が浮かんでいた。彼女の話を聞きながら、彼の胸に複雑な感情が渦巻いていた。

もしも美津子が一葉に何か言葉をかけていれば。もしかすれば本当に結果は違っていたのかもしれない。彼女の近くにいて、その機会があった美津子の後悔は、石上よりずっと強いものに違いない。

しかし、こんなことをいくら考えても彼女の死を覆すことはできない。

石上はしばらく黙って考え込んだ後、彼女に問いかけた。
「例の……一葉が見ていたっていうサイトにアクセスしたことは?」
「……あります。一葉が死んでから、彼女のことを少しでも知ろうとして……」

美津子の声が弱くなり、表情が険しくなる。
「そのサイト、俺にも教えてもらえるか」

石上の言葉に、美津子は一瞬躊躇したものの、決意を固めたように頷いた。
「わかりました。リンクを送ります」
「助かる。……実はこの件については警察はもうほとんど調査していない。今はほんの僅かな情報でも必要だ」
「でも、その……自殺なんですよね?」
「わからない。これは俺の勝手な推察なんだが、一葉が自分で命を断つってのが……どうしても信じられなくてな」

石上はカップの中で揺らめくコーヒーを眺めながら続けた。
「一葉の遺書にも、はっきりとしたことは書いてなかった。たとえ本当に自殺だとしても、一葉が死を選んだ理由を……一葉を追い詰めたものが一体なんなのか、俺は知りたい」

美津子は石上の真摯な姿勢を感じ取り、彼の決意に共感するかのように静かに頷いた。
「もし私にできることがあれば、協力します。私も一葉のこと、真実を知りたいんです」
「……ありがとう」

石上はコーヒーの残りを飲み干し、これから始まる長い調査に向けて、心を引き締める。蒼山一葉の死の背後にある真実に迫るために、彼は更に深い闇へと踏み込んでいくことを決意した。

石上は自宅に戻るとすぐに、パソコンの前に座った。美津子から送られてきたリンクをクリックし、例のサイトへとアクセスする。

それはさまざまなスレッドが並ぶ電子掲示板だった。目についたスレッドを開いてみると、苦しみや孤独を訴える書き込みが、次々と目に飛び込んできた。彼らが語る悲惨な体験談が並んでいた。彼は一つ一つの投稿に目を通しながら、心に圧し掛かる重圧を感じていた。

ここには、社会から見えない苦しみを抱える人々が集まっている。自らの痛みを吐露することで、少しでも心を軽くしようとしているのか、助けを求めているのか。一葉はどんな気持ちで、何を考えてこのサイトを見ていたのだろうか。

掲示板の利用者は皆、固定のハンドルネームを用いているか、名前を設定していない完全な匿名。もしも一葉がここになんらかの書き込みをしていたとしても、この無数の投稿の中からそれを一葉だと特定するのはなかなかに難しい。

しかし石上は諦めなかった。彼は思考を巡らせ、掲示板の過去の投稿をさかのぼりながら、一葉が参加した可能性のあるスレッドを探す。

目に飛び込んで来るのは、ネガティブなタイトルばかりだ。
『今つらいこと』『鬱の人集まれ』『死んでほしい人の名前を書くスレ』『楽な死に方』

開くことも少しためらってしまうようなスレッドだらけだが、とにかく見ていくしかない。

時間が経つにつれ、石上の心は次第に重くなっていく。ここにいる人々は、自殺志願者だけではない。「自殺を考えている」というような切実な告白もあれば、「どうにかして乗り越えたい」と前向きな意見もあった。

一葉もまた、こうした苦しみの中で悩んでいたのかもしれないと考えると、胸が締め付けられる。

そうして様々な書き込みを見ていると、奇妙なスレッドを見つけた。

『死神について』と題されたスレッドは、まるで何かの呼びかけのように石上の目を引いた。石上は思わずクリックする。スレッドの中には、死神という存在に関するさまざまな投稿が並んでいた。

中には、単なる都市伝説や噂話を語るものもあれば、真剣に自らの考えを述べるものもあった。

一年程前から、その死神は密かに語られるようになったらしい。

噂の始まりは一つの書き込みだった。自殺を考えているという女性が、その日の出来事をこの掲示板のとあるスレッドに投稿した。

〈今日電車を待っていたら女子高生にいきなり話しかけられて「死にたいとか考えてたりしますか?」って言われてゾッとした。そんな顔してたかな〉

そう書き込んだ掲示板の住民である女性は、その数日後から現れなくなった。

この書き込みだけなら、取り立てるほどの内容ではないのだが、数週間後にとあるSNSにこんな投稿があったという。

〈さっき塾行く途中で知らない女の子に「あなたが死ぬのは今日?」って声かけられた〉

それを投稿したアカウントの持ち主である男子高校生は、一週間後に塾のあるビルの屋上から飛び降りて亡くなったらしい。

以降も同じような形で突然「死について」を少女に問われた人間がその後死ぬか、行方不明になるという事象が続いて起きているというのだ。

死に関与しているとされる少女の存在が事実であれば、確かに〝死神〟と語られるのもおかしくない。しかし〝死の宣告〟や〝呪い〟など、あまりにもオカルト的である。

〈そいつが殺していってるだけなんじゃねえの〉

〈でも自殺なんでしょ?〉

掲示板でのそんなやり取りを見つけて、石上の頭によぎったのは一葉とそれに連なる『共通点を持つ複数人の死』のこと。〝自殺に見せかけた他殺〟というのは当然ながら最初から疑っていることではある。

ネットで囁かれる『死神』と、石上の追う『連続死』に関連性はあるのかどうかは現時点では不明だが、この死神を都市伝説だと軽んじるのも早計だと感じた。

目的から脱線してしまったが、ともかく一葉のことだ。

いくつも立ち並ぶスレッド。その中から一葉の痕跡を見つけるというのは糠の中から米粒を探すようなもの。そもそも彼女がここに書き込みをしていたかどうかも定かではない。

石上は取り憑かれたように掲示板の書き込みを探り続けた。気が付けば深夜になっていた。石上は食事も取らないままひたすらに掲示板を見ていた。
「……!」

ある書き込みを見て石上は息を呑んだ。それは『死にたいけど死ぬのが怖い人』というタイトルのスレッド内での書き込み。

〈死のうとしたけど、途中で怖くなって死ねなかった。死にたいのに、一人で死ぬのが怖い〉

それが一葉の書き込みだと強く感じた。投稿者の名前は『リジー・ベネット』。この名前は『高慢と偏見』という小説の登場人物のもので、その小説は石上が一葉とかつて語り合った作品だった。書き込まれたのは昨年末。一葉が亡くなった時期とも合致する。ほぼ間違いなく一葉だと直感した。

一葉の書き込みに対し、気になる返信があった。
〈自分も同じです。一緒に死にませんか?〉

その不気味な一文と共に、書き込んだ本人のものであろうメールアドレスが載せられていた。その返信を書いた者は『ゲーテ』という名前だった。

強烈な不安感に襲われる。一葉は恐らくここに載っているアドレスに連絡を取っている。もしも、このゲーテと名乗る者と接触し、命を落としたのだとしたら──そんな想像が頭を過った。

まだ推測の域を出ないが、一葉はここでゲーテと名乗る人物と出会った。悲しいことだが、一葉は確かに死を望んでいた。それでも一人で死ぬ勇気はなかった。だからこそ、共に死んでくれるという人間が現れたのは一葉にとってはある意味救いのように感じたのかもしれない。それがどれほど危険なことかも気付けないくらいに。

一葉が亡くなっていた現場に他の死体はなかった。明らかに心中ではない。もちろん今の段階では、ゲーテに殺害されたという証拠は一つもない。しかしゲーテが全く関係していないとは到底思えない。

石上は意を決して、ゲーテが載せているメールアドレスに連絡をすることした。

件名と本文を慎重に練り、送信ボタンにカーソルを合わせてクリックする。いつもの慣れたこの動作にすら緊張感を覚える。

数秒後に受信の通知が出た。まさかと思い、すぐにメールボックスを開く。届いたメールを見て石上は思わず舌打ちをする。
「エラーか……」

届いたのはエラーメッセージ。どうやらこのアドレスはもう使われていないようだ。

ようやく掴みかけた手掛かりがこんなにもあっさりと打ち砕かれ、落胆の溜息をつく。

石上はエラーメッセージを眺めながら、頭を抱える。しかし、このまま諦めるわけにはいかないと心を奮い立たせた。

掲示板の検索機能を使い、例のゲーテが他に書き込みをしているのかどうかを探してみたが、一葉の投稿への返信以外は見つからなかった。

石上は一葉の死を知った当初から、一葉は自殺ではないと見て調査を続けてきた。石上が見つけた、九件の不審な自殺事件。石上はこれを、自殺に見せかけた他殺の線があると考えていた。

先ほどの書き込みはほぼ間違いなく一葉だ。彼女に自殺願望があったという事実を、石上は未だ受け止め切れずにいるが、それでも何も見えていなかった一葉の死の真相に少しは近づいた。

そして一葉が出会ったであろうゲーテと名乗る人物。もしもこのゲーテが、石上が追う連続死の犯人だとしたら、これまでの仮説が一気に現実味を帯びてくる。一葉の死と、それと連なる九件の不審な自殺事件、そして掲示板に現れたゲーテという謎の人物。全てが繋がっている可能性は高い。

石上はゲーテを突き止めることが、一葉の死の真相を解明するための鍵だと直感した。そして、同時に、他の犠牲者たちもまた同じようにゲーテと何らかの形で関わっていたのではないかと考え始めた。

──失われた携帯電話。ふと思い出した、九件の死の共通点。

これは他殺を前提とした推理ではあるが、この携帯電話を持ち去ったのが犯人であればどうだろう。持ち去る理由があるとすれば、まず思い付くのは証拠隠滅の為。被害者と犯人との間でやり取りがあったとすれば、それを発見させない為であろう。自殺に疑義が生じる場合でなければ、警察も踏み込んだ調査をすることはない。

犯人の狙いはそこだけだろうか。持ち去った携帯電話を何かに利用することも考えられないだろうか。

石上は先ほどのエラーメッセージを思い出す。ゲーテが載せていたメールアドレスは、大手携帯キャリアのドメインだった。この手の匿名性の高い掲示板ではフリーメールを用いるのが一般的だ。

ゲーテが仮に殺人犯だとして、足が付きやすいメールアドレスを使うだろうか。
「……そういうことか……!」

石上は自分の閃きにはっとした。もしもゲーテが被害者たちの携帯電話を利用しているとしたらどうだろうか。被害者の携帯電話を使い掲示板に書き込んでいたとしたら、それは完全に匿名性を保つことができる。

亡くなった人間の携帯電話はいずれ解約される。当然メールは使用不能になる。だからゲーテが載せていたメールアドレスに送信したメールはエラーになって返ってきたのだ。

キャリアメールアドレスを使ったのはある種の信頼を得る為とも考えられる。そうして一葉のような人間と出会い、自殺を装って殺害してきた。被害者たちが本当に死を望む人間だったとしても、その命を他人が奪っていいものか。

犯人はこの掲示板以外でも同じようなことをしている可能性も考えられる。だが巨大なインターネットの海で、それを探し出すのは途轍もなく困難だ。

しかし、犯人は腹を空かせた魚だ。快楽を目的に殺人を行なっているのであれば、餌をちらつかせて釣り上げればいいのだ。

一葉のような人物を装って掲示板に書き込み、ゲーテを誘き寄せることを考えた。自分も死を望むが一人では怖いという内容で、まさにゲーテが関心を持ちそうな投稿をする。これによって、ゲーテが接触を図ってくる可能性が高まる。

この計画は非常に危険である。犯人を誘き寄せることに成功したとしても、直接の対峙は避けなければならない。

石上は一つ深呼吸をし、決意を固めた。この作戦はリスクを伴うが、真相を暴くためには必要なステップだ。